
2014年03月11日
世話しているのか、世話されているのか

私は今、毎日のように8頭のラブラドール犬と森の中を散歩をしています。
リードなしで散歩するので、その統率はなかなか大変です。
犬たちにとっては普通の犬のボスとは少し違う感じなのかもしれませんが、「私がボスなんだぞ」という気持ちを込めてやっています。
食事を皿に入れて「待て」をしている時に、犬同士が威嚇したりします。その時には両者の視線の間に入って、にらみつけて「お前殺すぞ」という気持ちさえ送ります。それでもきかない時は、犬に手や足を出すこともあります。愛護の精神に反しますが、群れのボスはそうするからです。その時一瞬、犬に対してではない、過去に自分が経験した憎しみの感情が湧き上がるのを感じることがあります。
その時はそれをすぐに消すようにしています。 そうしないと犬にも憎しみの感情が残ってしまうような気がするからです。そして食事が終わって犬たちも落ち着いた後、怒った犬を必ず抱きしめて、撫でて可愛がってあげます。
もちろん普段から可愛がっていないと、信頼関係が出来ずに怒ることもできないのですが、きつく怒った後は特に念を入れて抱いて撫でてあげます。そしてこの犬たちが本当にかわいい、大事なんだと感じないと、いざというときにボスとして群れを守ろうという気持ちにはならないだろうと感じます。
この命令の仕方は動物的なのですが、実は違うやり方があります。眼を見たり声を出したりすると分からなくなるのですが、犬の全身の細胞(素粒子)に私が想念、あるいは私の全身の細胞で命令する方法というものもあります。またそこには私と1頭の犬のやり取りではなく、小魚の群れが一瞬にして同じ方向に向き変わるように、犬同士の細胞のやり取りもあることを感じます。それは犬というものを、犬の形をした脳がある動物と見るのか、それとも30兆個くらいの細胞一つ一つの小さな宇宙の集合体とみるのかによります。このやりかたでやると声や動きは必要ありません。
ただし、これもやりすぎると想念を持ち遊ぶことになってしまいます。だから全身に話しかける意識で声で命令するくらいがいいのだと思います。意識的にしろ、無意識にしろ、人や動物をコントローしたいという思いでそうした想念を送ることは戒めなければなりません。
私が小学校5年生の時に、ラブラドールの血が入った雑種を拾ってきて飼ったことがあります。
それまで、私は割と内向きの、家で遊ぶような子どもだったのですが、犬の散歩をすることで鍛えられて自分の身体能力に気が付きました。多分この犬がいなかったら、その後トライアスロンなどをやることもなかったように思います。
そしてこの犬が来てから家族がずいぶん明るくなったように思い出します。だからこの犬に育ててもらったという思いがあります。
今また、わらびやを始める前に、黒いラブラドール犬たちの世話をしながら、この犬たちに育てられているのを感じます。ボスとして全てを受け入れる強さと、全てを断ち切る強さのようなものを、犬たちが教えてくれているように感じます。
犬たちよ、どうもありがとう。
Posted by sakata at 13:19│Comments(0)
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